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  • 2017.01.24 Tuesday

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    懐かしきビッグスターの横顔(二)三船敏郎(2)

    • 2016.12.07 Wednesday
    • 18:04

     三船、森繁、そして私は同じ中国で生活していた。従ってお互い日常会話程度の中国語が話せる。都合の良し悪し臨機応変に三人だけが通じる言葉を使うので、薄気味悪く思われていたそうだ。三船さんは一年に1本ほど私は年間13本位のペースで出演していたので羨ましがられた。「俺は年に一本だぞ」と。

     三船さんとの共演はシラノ・ド・ベルジュラックの日本時代劇版。鼻の大きな三船シラノ、私は美剣士クリスチャン。ロケ先でセットの片隅で、三船さんから色々な話を聞いた。朝9時に各作品が撮影に入る。その前のメーク室での会話が面白い。

    三船さんが不機嫌な顔で、いささか青ざめた顔で座っている。その日は「蜘蛛巣城の砦」で逃げまどう武将が弓矢を放たれ最後に首に矢が貫き死ぬ場面だ。普通なら矢の中にピアノ線を通し、着点を固定しスタッフが10人位で矢を放つ。ところがリアリズムの黒澤さんは、実際の弓道家の戦士とか練士の方々にピアノ線なしで矢を放つことになっていた。

    その日の化粧室で発した三船さんの言葉は今も忘れられない。誰も三船さんに声をかけなかったが、「黒澤明をバズーカ砲でぶっ殺してやる!!」城の高台の廊下で放たれる矢を交わしながら逃げまどう三船さんの演技は気迫に満ち、壮絶なものであった。

     この作品を最後に黒澤、三船のコンビは解消した。世界で数々の賞をとり、ハリウッドで映画の殿堂入りを果たした三船、鶴田浩二、私の3人が共演した「暗黒街の顔役」も懐かしい作品だ。

    懐かしきビッグスターの横顔(二)三船敏郎(1)

    • 2016.11.11 Friday
    • 18:17

     三船敏郎。中国青島で生まれた写真屋さんの息子。

     兵隊に行き、戦後復員して、日本へ。職もなく家業の写真屋になろうと照明の勉強のために昭和23年第一回東宝ニューフェースに応募した。決して役者志望ではなかった。

     審査委員長は山本嘉次郎監督。軍服姿で痩せこけた三船は当然落ちた。審査が進む内、山本が「おい、黒沢。さっきの軍服の男、君の今度の映画に使えないか」と山本監督のチーフ助監督をやっていた黒澤明に言った。

     八方手分けして探しに行くと、成城学園の駅の階段を肩を落として昇って行く三船を見つけ、撮影所に連れて帰った。この運命の出会いが黒澤作品「酔いどれ天使」の吐血しながら生きてるやくざの壮絶な生き態を三船は見事に演じきったのである。

    その後のこのコンビの作品は「七人の侍」を筆頭に数々の名作を世界に向けて発表し、完全に映画界を掌握した。  (続く)

     

    写真はウィキペディアより三船敏郎氏


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    懐かしきビッグスターの横顔(一)森繁久彌(2)

    • 2016.10.27 Thursday
    • 18:28

     

     

     もう少し森繁さんのことを書く。

     繁さんのアドリブは有名で広く知れわたっていた。書かれたせりふ(・・・)の後、カットの声がかかる前にほんの一言チョロッと喋るのだが、実はこれが実に絶妙で全員が笑ってしまう。

     機智にとんでいて、時に辛辣(しんらつ)で、かと云って相手を傷つける訳でもなく、人間の心理や機微を短い一言で表現するのだ。

     ところが、本番では、その大半以上言わない。一本の映画で多くて34ヶ所のみ。つまりアドリブで喋っていると思わせる話術がすごいのだ。文才があり、絵がうまく、書かれた人物を現実に存在するかのように演じ、女の子のお尻を触る(名人で、少年の様にはにかみ屋さんで、私とは20才以上年上で、男盛りの四十から六十代を身近にいて接し、スケベ爺さんが言う言葉は、「皆んな俺より先に行っちゃう。順番を間違えてんのかな。まだお呼びじゃないんだよ。おたかさん」御存命なら102才。二度と出ない百年に一度のビッグスターだ。


     

    写真はウィキペディアより森繁久彌氏

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